タイヨウのうた

月曜だがたまたま残業がなく、以前から観たいとおもっていた「タイヨウのうた」を観てきた。
本当は1日の「映画の日」に観に行くつもりでいたのだが、W杯の準々決勝を観ていたら夢中になってしまって、「映画の日」であることをすっかり忘れてしまっていたのです(苦笑)
平日ということもあって館内には余裕があったけど、クチコミで評判を呼んでいることもあり、2/3以上の席は埋まっていた。内訳としては、やっぱりカップルか女性同士が大半。もっとも座席指定するときに、窓口の兄チャンが気を利かせてくれて左右に誰も入れなかったから1人で足伸ばしてゆっくり観れたけどね。
ストーリーは公式サイトがあるのでそちらを参考にして欲しい。
観た感想を一言で言えば、この映画は、主演である「YUIの、YUIによる、YUIのための作品」である。
逆に言えば「YUI」という存在がなければ、この映画は成り立たなかっただろう。そのぐらい雨音薫=YUIの存在は際立っていた。
「不治の病に冒されながらも賢明に生きようとする少女」────。
同じシチュエーションを扱った名作は「世界の中心で、愛をさけぶ」「1リットルの涙」「私の頭の中の消しゴム」etc...これまでも数多くあった。それらの作品は、どちらかといえばその悲劇の重さがクローズアップされ、観ているほうも痛々しいと感じずにはいられないものだった。それ故、観終わった後「良い作品を観た」という思いとは別に、ひどく「重いものを背負わされた」と気分を引きずったまま映画館を後にしたのを覚えている。
しかし「タイヨウのうた」は同じシチュエーションを扱った作品であるにもかかわらず、それらとは一線を引く。作品の色合いがとてもライト感覚なのだ。
そして、そう感じるのは、あながち間違いではない。
脚本を書いた坂東賢治氏の映画的狙いは、最初から「10代の青春映画を描くこと」にあった。「主人公が不治の病に犯されている」という設定はドラマ上のエッセンスのひとつにしか過ぎなくて、あくまでも薫は「病と闘う悲劇のヒロイン」なのではなく「歌をうたうことが好きな少女」として描かれている(もちろん「不治の病」と言う設定は物語の重要な要素であることに変わりはないが)。
薫は日中は外に出られない体質だが、よく考えてみると、彼氏と夜遊びしている女子高生(薫は学校には通っていないが)など特に珍しくもない光景だ。相手役の孝治(塚本高史くん)にしても、少女漫画もビックリの「ベタなイイ奴」だし。普通こんなウソ臭い恋愛なんて、絶対ありえねぇ(笑)
それでも嫌味にならないのは、YUIのかもし出す「朴訥とした純粋さ」と雨音薫という「生まれたときから家に閉じ込められていた少女」という設定がリアルにマッチしていたからだ。
既に各方面のインタビュー記事にも載っているが、YUI
 「役を演じるのではなく、雨音薫を生きようと思った」
と、映画に臨んだ時の心境を明かしている。もちろん演技では素人と解かっているゆえ、方法論としてそれを選ばざるを得なかったのだろうが、逆にそのことが「役作り」という煩わしい部分を消し去り、雨音薫を「リアルな1人の人間として」見せる好結果に繋がった。
役と自分自身の境界線を越えてシンクロしてみせるというのはベテラン俳優でも難しいことだが、現実にもシンガーソングライターであるYUIは、薫と同化することを実にスムーズにやってのけた。他の役で同じことができるのかといえば難しいだろうと思うが、それでも備わった感性は極めて映画向きと見て取れた。しゃべり方ひとつでも「本当に薫が居たなら、きっとこういう具合にしゃべるんだろうな」という気持ちにさせられたし。
今後もこういう機会があるのか不明だが、周囲はこの新しい才能をほおっておかないだろう。年末の各映画賞の動向が楽しみである。
そしてもう1つ。先の作品群のヒロインは、皆ある程度の年齢を迎えてから急に重病を発症しているが、今回の主人公・薫は、生まれたときから「XP(色素性乾皮症)」という病に犯されている。故に自分の体が徐々に動かなくなっていっても、必要以上に死の恐怖に怯えたり、落ち込んだりすることがない。病気と付き合ってる期間が長いこともあり、自分の余命についてなど、ある程度悟っているのだろう。もちろん映画上の演出でそういうシーンを極力入れないようにしたということもあるのだろうが、病気とはっきり解かるシーンが出てくる後半以外はそれとは思えないぐらい、薫は無邪気である。この無垢な明るさが映画のカラーそのものになっていると言っていい。
孝治との初デートで横浜に向かい、ひまわりの描かれた壁で歌う薫は神々しいぐらいに輝き、人々を魅了する。夜の闇のなかで見えない太陽がそこにあるかのごとく。歌うことの楽しみ、孝治に対する思い、そして今を生きていることへの感謝。全てを乗せて響く歌声は歌の持つ世界の大きさと説得力を再認識させられた。このシーンは自分が一番グッときたお気に入りの場面だ。
朝日が昇ると真っ先に海に向かっていた孝治が、薫という「新しい太陽」を見つけ、そしてその斜陽を観ながら、この物語は終わる。
しかし、彼の心の中には間違いなくタイヨウは昇り続けるだろう。薫の残した歌と共に────。
そしてまた朝日に見守られる海へと入ってゆくのである。薫に抱かれるように。
監督・小泉徳宏氏はまだ20代で、これが映画初監督作品。若い監督だが、奇を衒うことなく落ち着いた画の撮り方をする正統派の監督…そういう印象を受けた。
集まった俳優にかかわらず難しい自論や講釈を強引に展開する監督や、ストリーテラーとしての色合いが強く物語の中に俳優を当て嵌めてゆく手法を得意とする監督は多いが、俳優の持つ感性を信じて上手に引き出すことに長けている監督はそう多くない。
俳優任せといえばそれまでだが、逆に言えば「映画として成立させること」を考えるならば、それは非常にリスクが高いとも言える。最近にしては珍しいタイプの監督で、次回作に何をやるのか注目されるだろうが、ゼヒ注目してみたい。